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2011年3月


31日(木) 釜津田最後の日

 つたや旅館で目覚めました。超がつくほど田舎にある旅館ですが、内装も布団も食事もすばらしい内容でした。釜津田滞在3年を終わる今になって、初めて知りました。当日の夕方になって突然予約したのに、夕食はすき焼きほか8品もの豪華な料理、朝食もフキノトウや手作りの凍豆腐、川魚、花わさびなど地域の食材がふんだんに生かされていました(下の写真)。

 学校に戻って、午前中は残った事務処理に忙殺されました。午後から、やっと自分の担当箱や机の整理整頓ができました。これからは必要がないだろうと思えた大量の冊子や資料を処分してみると、文房具などを含めて段ボール箱2つにすべて収まってしまいました。

 午後、ついに釜津田でもISDN回線が復旧し、インターネットが使えるようになりました。「ビビビビ...」と耳障りなエラー音を発するため電源を切り、一日に何回か通電実験していたターミナルアダプタ、通電したら「ペリッ」という音が鳴った(つながったということ)のでした。繋いでみると、教育委員会などからのメールがたくさん来ていました。

 夕方5時にやっとすべて終了。後ろ髪引かれる思いで出発したところ、やっぱりマスターキーがポケットに入ったままでした。峠の頂上付近から戻るとき、なんか幸せ気分でした。送別会も中止になり、挨拶回りもほとんどできず、新聞による異動の発表もなかったので、釜津田の皆さまには本当に失礼いたします。お世話になりました、釜津田中学校。


30日(水) 引き継ぎの嵐

 朝、新しい赴任先の宮野目中学校へ。東日本大震災の影響で人事異動の変更を余儀なくされ(津波の被害を受けた沿岸部の学校に勤務する教諭の異動が、児童生徒が頼りたいときに先生がいなくなることを防ぐために凍結された)、この学校に赴任するのが分かったのは25日(金)になってからでした。

 とても明るそうな雰囲気の職場で、部活動に来ていた生徒も素直にあいさつしてくれました。9時から始まった引き継ぎは12時近くまでかかり、女性の先生方がおいしいどんぶりを作って先生方に振る舞いました。私もごちそうさまでした。

 すぐさま釜津田へ移動開始。今度は釜津田中に異動してくる副校長と英語教諭への引き継ぎでした。3時頃から英語の引き継ぎ。3:50頃から副校長の引き継ぎ...副校長と事務の職務があるために終わったのは6:30頃でした。

 引き継ぎの合間にもいろいろな電話。教育事務所への勤務実績報告を忘れていたり、教育振興運動の補助金申請書の通帳番号が間違っていて書類を作り直したり、ある業者からの請求書が小学校と入れ替わっていたり...結局職員室の机が片付けができなかったので、今晩は釜津田唯一の旅館「つたや」に宿泊することにしました。本当に釜津田最後の晩です。

 あそうそう、今晩ついにドコモの携帯電話が釜津田で使えるようになりました。アンテナ3本立っているのを見たとき、感動しました。


29日(火) 引っ越し

 いよいよ釜津田からの引っ越しの日。朝8時、トヨタレンタリース花巻空港店に予約していたタウンエースを借りに行き、その車で釜津田へ。元用務員のH子さんに教員住宅のお掃除をお願いしていたので、私自身は自分の荷物を車に運び込んだり、学校に戻って事務仕事をしたりと行ったり来たりしていました。結局、部屋の掃除がすっかり終わったとき午後4時になっていました。途中、実家に荷物を降ろしながら慌てて花巻へトンボ返り...レンタカーの返却期限が午後7時だったのでした。

 今晩は実家に泊まることにしていましたが、明日の事務引き継ぎのための背広を自宅に忘れたのを思い出し、またも北上へ往復。一日300km越えの運転、しかも途中には結構な峠もいくつかあったりして、実家に着いたときは、もうすっかり疲れ果てていました。


27日(日) 釜津田最後の晩?

 自宅から釜津田へ戻りました...食料は最小限で。最後の晩は(やっぱり余震もあったりして)なんか落ち着かず、星も出ていましたが望遠鏡もなく、もったいない夜でした。インターネットは...やっぱりISDN回線は復旧していないようです。


24日(木) ガソリン満タン! 〜 被災地 〜 30年ぶりの出会い

 昼過ぎ、校長先生に学校のお留守番をお願いして、町に出かけました。銀行に立ち寄り、教育委員会で小本中の生徒の安否を確認したり文書を受け取ったりしてからガソリンスタンドへ。「量の制限はありますか?」と聞くと「ない」というので、迷わず「満タン!」と叫んでしまいました。2日間何時間も並んで13.4リットルだけ給油していた先週末が嘘みたいでした。

 次に、自宅を失って避難している知り合いの生徒の避難先に向かいました。しかし、係の方が「車がないので、自宅の整理に行っているのではないか?」ということで、小本地区に向かいました。

 海岸が近づくにつれて、道路周辺にポリバケツだのトタン屋根だのが散らばり始め、小本小学校付近に到着すると、津波でぐしゃぐしゃになった家が乱立していました。生徒のご家族にお見舞いを手渡そうと思いましたが、思いっきり復旧作業の邪魔になりそうだったのであきらめました。

 帰り道、思い切って生徒の避難先のコテージに行ってみたところ、本人がいました。いつも明るい生徒でしたが、今日はちょっと元気がありませんでした。辛いだろうけれど、がんばれH季さん!

 岩泉郵便局に寄り、30年ほど前から知っている星仲間、八重樫Sさんに久しぶりにお会いしました。局長さんということで、多忙のため星からは遠ざかっているとのことでしたが、わずか10センチの反射望遠鏡でものすごい天体写真を撮影するプロ中のプロです。久しぶりに懐かしくお話しさせていただき、楽しいひとときでした。


23日(水) 全員合格!

 昨日は、予定より1週間遅れの公立高校合格発表でした。アナログ電話は開通したのですが、外部の携帯からは職員室の電話にはかからなかったようで、今日になってから全員の合格を知りました。スクールバスで登校してきた3年生に、合格通知書が手渡されました。3年生の保護者たちが知らないうちに集まり、家庭科室でお祝いのピザやら赤飯やらを作りました。担任は、地震のために卒業式で披露できなかった自作DVDを、卒業生や保護者たちに見せていました。


22日(火) 釜津田で電話が通じた 〜 喜びの声

 午後、職員室にある目の前の電話が、11日ぶりに突然鳴りました(びっくりした!)。宮古市に本部があるNTTが一部復旧したようです。けれども、どうやら復旧はアナログ回線のみであり、ISDN回線はまだで(FAXやメールの送受信ができなかった)、携帯電話にもかけられないようです。役場の電話も通じなかったので、もしかしたら岩泉の町よりも早く復旧したということでしょうか?

 夕方、女子生徒の一人が喜び勇んで職員室に入ってきました...盛岡の希望する高校に合格できたとのこと。親戚に合格発表を見に行ってもらい、お母さんと七滝まで車で移動して携帯で結果を確認したそうです。こんな時は何を言ってもニコニコ。最高の笑顔でした。


21日(月) 無事でした!

 釜津田に戻るだけのガソリンでは教育委員会などへの移動ができないので、今朝もガソリン待ちの列に並んでしまいました。

 午後、釜津田に戻る途中、日詰あたりで携帯が鳴りました。大船渡のK野先生からでした。幸いにも自宅もご家族も大丈夫だったとか。自宅に避難している人たちがいるとのことで、得意の料理の腕を発揮しているのかな、と思いました。


20日(日) ガソリンパニック...並んじゃった

 ガソリンの枯渇は内陸でも問題で、自宅のある北上でも夜からガソリンスタンドに向かって長い列ができていました。かく言う私も、朝7時に自宅を出て並びました。リッター149円、1人2,000円分までということで、13.4リットルの給油。でも、タンクが小さいので半分ぐらいになりました。これで、釜津田往復ができると思います。道路の反対側には、別のガソリンスタンドに並ぶ車の長〜い列。4車線の国道4号線が2車線状態になっていました。

 コンビニも満車状態。なんでも、先を見通して買い占めに走っている人が多く、簡単に食べられるカップラーメンなどに加え、米とかトイレットペーパーまで品薄だそうです。

 テレビでは、企業がCMを自粛しているとのことで、10種類ほどのACのコマーシャルが繰り返し流れています。なんか飽きてきました。


18日(金) 勇気を出して自宅へ向かう

 今日は、溜まった文書処理と、卒業式のとき撮影した記念写真の画質調整〜試し刷り〜印字、机の引き出しに溜まりっぱなしの文書整理などをしました。

 釜津田にいては電話も通じず、ネットにも接続できません。携帯電話が使えるところに移動してお見舞いメールに返信したいのですが、携帯で受信はできても返信する際のテンキー入力が信じられないほど遅く、フェイスブックのコメントに返信しようにもファイスブックそのものに携帯からはログインできません。幸い、昨日から盛岡と小本を結ぶ国道455号線を、一般車両も制限なく走れるという報道もありました。そこで夕方、思い切って(給油なしでは戻れなくなる覚悟で)北上の自宅へ向かいました。

 夕食を終えて夜7時頃出発したのですが、国道4号線にはいると異変が生じていました。松園にあるガソリンスタンドにエンジンを止めた100台以上の車の列。花巻でも、北上でも1カ所ずつこの光景を見かけましたが、家内によるとこれは営業している店なのだとか。その他多くのガソリンスタンドは営業さえしていないということです。

 また、高速道路は閉鎖されているのに国道4号線はガラガラで、時折ハイビームで走行することさえできました。まだ夜の9時というのに、開店しているコンビニもありませんでした。きっと配達トラックが届かず、品物を仕入れることができないのでしょう。

 125km走行して自宅に到着したとき、あと釜津田に戻れるかどうかギリギリというぐらいのガソリンしか残りませんでした。


17日(木) PTA総会も中止に

 今晩は臨時のPTA役員会が計画されていたので、多分総会が中止になるのではないかと思い、急いで資料を145部印刷〜製本しました(校長先生と用務員さん、お手伝い感謝!)。その後、カブダの会(森林愛護少年団を指導する人たちの会)や中学校委員会(PTAの中学校部門)などの資料も、続けて作成〜印刷〜製本しました。

 配布準備をして臨んだ役員会、やはり総会は中止という結論に至りました。10地区の班長さんたちに、総会資料の配付をお願いする手配を終えました。ちょっとは先読みすることができました。でないと、貴重なガソリンを使って10軒の班長宅に配らなければならなくなるのだ!


16日(水) 今日のお仕事

 今日出勤したのは校長先生と用務員さん、そして私。来客は電気施設点検と保護者のみ、とても静かな一日でした。今日の仕事、メインは来年度の校務分掌計画と、21日に予定されているPTA総会の資料印字でした。昨日計画されていた卒業を祝う会、今日から7日間飛び飛びの生徒活動日、21日のPTA送別会、23日離任式後の挨拶回りと夕方の副校長会総会、24日の職場送別会、25日の辞令交付式すべてが地震と津波の影響でキャンセルになり(ガソリン不足の理由も大きい)ました。

 時折発生する余震とテレビで続いている震災関係のニュース(特に避難している人たちへの物資不足と、福島第一原発の事故)以外は、ある意味落ち着いた年度末になっています。


15日(火) 第59回卒業式 〜 知り合いの先生の消息

 町内では延期する中学校も少なくない中、本校では職員も生徒もその家族も全員無事だったため、幸いにも卒業証書授与式を迎えることができました。今年の卒業生は4名。私が釜津田中に転任すると同時に入学してきた生徒たちでしたが、入学当時のおどおどした頼りない表情は、3年間で自信に満ちた青年のものになっていました。時が時だけに来賓はわずか7名でしたが、こんな時期にもかかわらず、よくいらしていただいたと感謝!

 式終了後、卒業生と保護者・職員で記念撮影。卒業生の一人に抱っこされた幼児がいるこの写真、なんかほのぼのしませんか?

 門送りは、例年通り校舎内で行われました。3年生の下校時は、在校生と職員、残っていた一部のご来賓でアーチを作りました。

 今日で3学期も終わり。先生方はガソリン不足で出勤もままならないため、明日から22日まで有給休暇で休んでいただき、明日からの日直は校長先生と私が交代で行うこととしました。

 釜津田は未だに電話が通じず、携帯電話もいつもならアンテナが2本ぐらい立つところに行っても圏外のままです。夜、貴重なガソリンを消費する覚悟で大川の七滝まで運転しました。ここでは、なぜかアンテナが3本立つと聞いていたからです。家内と4日ぶりに電話で話し、来週の娘の卒業式に出られないだろうということ、3月末の家族旅行(栃木〜福島方面を予定していました)もキャンセルという結論になりました。

 心配して下さるメールもまた何通か入っていました(その数倍もの数の迷惑メールに混じって!)。返信は、またも慣れない携帯での入力なので、短かく短かく...。消息が分からないままになっている大船渡のK野先生、宮古のK野先生、北上のA部先生に電話してみました。A部先生は無事でしたが、前者2名には電話が通じませんでした。でも、きっとバッテリー切れだろうと思います。

 住宅に戻ると、車のガソリンは残りあと約15リットルぐらいかなぁ。早く電話が通じて欲しいですが、家族や家をなくした被災者の方々のことを考えて、我慢我慢。


14日(月) 卒業式準備

 1週間が始まりました。F先生の奥さん(田老町に勤務)が見つかったというので、朝から明るい気分になりました。

 学校の玄関に「14・15日の給食はない」という張り紙がしてあったので、今日は午前中で生徒を帰宅させることとしました。1・2時間目、生徒たちと先生方が式場準備をしている間、私はK造さん宅に予約していた松の盆栽を借りに行きました。そのうち、花屋さんから鉢花も届き、私の分の仕事は大体終了。

 3時間目に卒業式の予行練習を行いました。4時間目の呼びかけの学年練習中には、お祝いメッセージの掲示作業と読み上げ原稿作成をしましたが、今年は私の作業が遅れてしまいました。それは、同時にPTA総会の資料作成(小中PTA、中学校委員会、カブダの会と、私の守備範囲は3つある)を進めていたからです。


13日(日) マグニチュード9.0だった?

 東北関東大震災(テレビ局によってネーミングが異なるので、NHKより)が発生してから3日目、今日はテレビで一日中流れている地震や津波についての報道を見ながら、部屋の整理整頓をしました。マグニチュードはなんと9.0に修正され、世界的にも最大級の地震だったようです。岩手県はもちろん、宮城県、福島県などで死者・行方不明者の人数が次々と増えています(岩手では現在、死者335名...沿岸の知り合いの無事を祈ります)。

 町の携帯電話が通じるところまで行って家族や実家への連絡を試してみようかとも思いましたが、ガソリンスタンドでは10リットルまでしか給油してくれないとのことで断念しました。無駄に走り回るのは命取りです。JRの新幹線や在来線も運休、まだ停電・断水している場所もたくさんあり(沿岸方面はいうまでもなく)、携帯も電話も通じず、国道4号線はガソリンスタンドに並んだ車の列で(4車線の道路が)2車線になっているとのこと。明日から平日、東京電力では地区ローテーションで計画停電をする予定とのことです。

 火曜日に予定されている卒業式、予定通り行いますが、来賓はほとんどなしで、保護者も消防団で来られない人もいるため、最悪の場合生徒と教師だけの式になりそうです。それでも校舎は無傷であり、電気も通っているので、式ができるだけでもありがたいことです。


12日(土) 地震の被害、次々と

 昨日は教育委員会に被害状況(幸い、釜津田中は一切被害なし。頑丈な校舎です)を知らせられなかったのと、自宅にもう一度連絡を取りたくて携帯のアンテナが立っているところを求めて岩泉の町へ。町民会館に着いても携帯電話は「圏外」でした(泣)。教育長さんが「釜中はどうですか?」と聞いて下さったので、無事であることをお伝えできました。それはよかったのですが、沿岸部の小本中学校ではグランドに津波が押し寄せ、何軒かの家も押し流されてしまったらしいとのこと。町民会館にも何十人もの町民が避難し、緊急用の飲み水なども用意され、人々が忙しく動き回っていました。

 車のカーナビでワンセグ放送を受信できましたが、大船渡や陸前高田では町が壊滅状態とのことで、駐車場の数十台の車がマッチ箱のように津波に押し流される様子などが放送されていました。町内すべてが停電で携帯電話も圏外なのに、テレビだけが映るのは不思議な感じでした。途中、携帯のアンテナが2本立つ地点を見つけ、校長先生に報告済みを連絡できました。また、iモードでメールチェックをしたところ、国内外から私の安否を気遣ってくれるメールが6通も入っていましたが、使い慣れない携帯なので返信は短く(汗)。その後、自宅にも石鳥谷の実家にもつながりませんでした。

 停電2日目の夜、福島県の原子力発電所で放射能汚染になりそうな深刻な状態になっていることや、岩手県内外の沿岸市町村で多数の死者が出ていることが報じられています。電気はつかないけれども、反射式ストーブで暖を取り、お風呂にも入れ、何より安全な建物の中にいられる贅沢、家を失ったり、まだ寒空の元で助けを待っていたりする方々にすごく申し訳ない気分です。

 22時前、電気が通じました(早かった! ありがとうございます)。さっそくテレビをつけてみると、どのチャンネルでも悲惨な地震や津波の様子が報じられていました。ふと外を見ると、なんか明るい。地震発生時の停電で消えた校舎中の電気が、通電したために煌々とついていたのでした。職員室の警報も鳴りっぱなし、ファンヒーターも緊急消化のエラーのままでした。もし北上の自宅に戻っていたら、大変な電気の無駄遣いをするところでした。


11日(金) 本校の給食 〜 激しい地震

 本校では、昨年度から給食は生徒と教師が一緒に食べています。冬期間は作法室で、輪になって食べます(席順はくじ引き)。少し静かすぎますが、とても落ち着きます。

 卒業式の練習を終え、学年ごとの準備をしていた午後2:46、ものすごい地震の揺れを感じました。「そのうち収まるだろう」と高をくくっていましたが、ぜんぜん収まらずにどんどん強くなりました。頑丈な岩盤に乗っている釜津田でさえこれほど揺れるのだからと、外に出て携帯電話のiモードで調べてみると、3:19の速報で「宮城県北部で震度7、大津波警報発令」とのことでした。その後、出かけていた先生の車のラジオでは、「岩手県沿岸では4メートルを超える津波が押し寄せ...」と報じていました。

 次から次へと余震が続くので、ちょうど電話をいただいたスクールバスの運転手さんには早めに迎えに来てもらい、怖がって職員室前に集まっていた生徒たちは全員帰宅させました。

 自宅に連絡がつかず心配だったので、夕方6時頃出発。ラジオでは悲惨な被害の様子と共に「県内全域が停電で信号が止まり、高速道路も封鎖で国道4号線は大渋滞」と報じられていました。おまけに岩洞湖付近は猛吹雪。外山あたりで自宅に電話が通じて家族の無事を確認しましたが、「ものすごい大渋滞なので、戻ってこない方がいい」という家内のアドバイス。また60kmを引き返して釜津田へ。揺れている最中に止まった電気は夜になってもつかずに久しぶりのロウソク生活でしたが、お風呂だけはガス釜なので快適でした。

 それにしても、10分おきぐらいに大小取り混ぜた余震が続いています。ラジオでニュースを聞いていますが、沿岸地方は相当な被害になっているとのこと。マグニチュードは結局、日本の観測史上最大のM8.8とのこと。こんな数字、DVD映画でしか見たことありません。


10日(木) 音楽の先生のお別れ会

 本校には音楽の先生がいません。だから、町内5つの中学校を曜日別に巡回指導している非常勤講師の先生が、水曜日に来校します。基本的には1年契約なので、(例年通りですが)お別れ会をしました。7人の生徒の合唱を指導する困難さは察して余りあるものがありますが、「2人以上いればハーモニーを作り上げることができるんだよ」とおっしゃったそのスタンスに、今さらながら感銘を受けました。


5日(土) 不通のままの岩泉線 〜 フェイスブック

 自宅への帰り道、ふと押角峠を通ってみました。峠を越えて茂市側に下る途中、岩泉線の踏切で車を停めてみました。何ヶ月も列車が通らない線路には雪が積もり、遠くにトンネルの穴だけが見えるのが異様でした。トンネルの反対側(写真右)を見ると、一直線に伸びているはずの線路も雪の下に埋もれていました。

 一緒に仕事をしているALTがしきりに勧めていたフェイスブック、一体どんなものかと思って試しに登録してみました。始めたばかりなので詳しいことはまだ分かりませんが、日本で何年か前に物議を醸した前略プロフィールみたいな雰囲気があるので、個人情報をどこまで公開するかは慎重になる必要があると感じています。しかし、世界で5億人も利用しているといわれるだけあって、27年も前に知り合ったミネソタ州のルームメイトとその恋人(今は奥さんになっていました)を発見することができました。


3日(木) ひなまつり

 女性の先生が、職員室の入口に手作りのおひなさまを飾りました。給食でもちらし寿司など、ひな祭りメニューでした。なんかほのぼのしていい感じ。


2日(水) ALTのお別れ会

 ALTの今年度最後の授業の日、お別れ会がありました。3年生は今日が最後のTT授業でしたが、内容は1週間後の公立高校入試をにらんで、通常の入試対策プリント学習をせざるをえませんでした。お別れ会では、代表の生徒が自分でがんばって作文した英語をきちんと暗記し、メッセージとして伝えることができました。


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